2011-08-31

血まみれの月 [ジェイムズ・エルロイ著]


エルロイ初期の作品。

成人する前に似たような悲惨な経験をした男2人が、二十数年後、連続殺人犯と事件を追う刑事として対決する。この2人の間に、ある意味で事件の発端となった女が絡んできて、3人の関係がクライマックスにもつれこんでいく。1980年代が舞台。

2人の男の対比とそこに絡む女、という構図は「ブラック・ダリア」に通じる。「LAコンフィデンシャル」にも通じているかも。この「血まみれの月」の"運命の女"は男たちのキャラクターとドラマの迫力に対して力量不足な感じはあるけれど。

それにしても暴力と犯罪現場の描写が凄惨で、初期の作品のせいか荒削りなところがあり、余計に神経にこたえる。鬱がひどくなってしまった。

2011-08-28

ジョブスはフォードやエジソンと並び得るか? [NPR]

Original Title: Does Jobs Have Place In History Beside Edison, Ford?

8月24日、スティーブ・ジョブス氏がアップル社のCEOを退任した。ジョブス氏は人々の生活を変えてしまったという点で、フォードやエジソンに並ぶかどうか、という話。

ヘンリー・フォード博物館の主席学芸員がインタビューを受けて、ジョブスはエジソンという発明家とフォードという革新者が混合しているような人物だとしている。

発明家のイメージは、世の中の役に立つのかわからないアイデアを実現するために時間と労力を惜しまない人、というもの。まさにエジソンだ。一方フォードは、フォード社創業当初、会社と一体化した存在とみなされていた。

ジョブスは、わたしたちが必要とも思わないものを作り出して、それを愛するようにしてしまった。黒いタートルネック姿で新製品を披露する姿は、アップル社の一部といってもよい。

エジソン、フォード、ジョブスに通じるもの。それは固執、先見の明、表現力。さらに何か特別な要素が彼らを先駆者とした。

今から10年前にNHK「クローズアップ現代」に出演したジョブス氏は、やり続けることが成功にとって一番肝心なことなのだ、と言っている。そして自分のアイデアを世に現わしたいという熱意こそがその源になるのだ、と。

CEO退任から2ヶ月足らず後の10月5日にジョブス氏は56才で死去。NPRは、「コンピューター界の詩人、死す」と報じた。

2011-08-24

夜明けの街で [東野圭吾著]

アガサ・クリスティっぽい。

アラフォー男が1年契約で職場に来たエキセントリックな派遣社員と不倫の恋に落ちるが、彼女は思春期の頃未解決の殺人事件と関わりがあった、という話。

本来ならドロドロの人間ドラマが中盤までさらっと描かれていて、中盤あたりで過去にあった密室殺人の概要が明らかになる。関係者たちが続々と登場し、主人公のアラフォー男に恋人への不審感を植え付ける。彼女は犯人なのか、どんなトリックが背後にあるのか。

この不倫男の心情が生々しく綴られていて、作者にきっと経験があるのでしょう。それと、男の本音がわかったよ。おいしい洒落た料理を作ったり家の中をこぎれいにしても、だからといって妻を高く評価しないのですね。

主人公の不倫の恋は1年足らず続く。その間悦びに浸ったり罪悪感に苛まれたり感情の起伏が激しい。しかし、この人はラッキーな不倫の恋をしたと思いますよ。あと腐れのない、ね。

人間ドラマも描かれているけれど、そこはさらっと描かれていて、最後に関係者が集まって密室殺人という古典的トリックが明かされるという構成がアガサ・クリスティっぽいと思った。

2011-08-14

荒野の七人 [ジョン・スタージェス監督]

全員、なんてスマートなんだ。体型も仕草も役柄もスマートだ。

黒沢明監督の名作「七人の侍」を下敷きにしている作品。しかし、黒沢作品の方が、荒々しさ、どぎつさ、激しさがより鮮明に描かれている気がする。

黒沢作品では、戦いを生き残った主要キャラクターを演じた俳優が実生活では早世しているけれど、この映画でもユル・ブリンナーとスティーブ・マックィーンが1980年代に亡くなっている。他の5人は21世紀になってから亡くなっている。映画の中で一番最初か2番目に死んだ役のロバート・ヴォーンは健在で、2012年公開予定の続編(!)に出演している。

話しは変わるのだけれど、午前十時の映画祭は往年の名画を上映するので、作品によっては観客にお年を召した方が多いことがある。この「荒野の七人」のような長編映画の場合、途中で睡魔に襲われるようで、いびきとも寝言ともため息ともつかない異音を発する方がいらっしゃいますね。

2011-08-12

えてこでもわかる笑い飯哲夫訳般若心経 [笑い飯哲夫著]


おもしろい!下品だけど仏陀の教えをちゃんと説明している。仏陀の教えが何であるか、わかるようになっている。

般若心経が、「空」についてこれでもかこれでもか、というくらい説明していることがわかった。その上で哲夫氏は、全てはつながっていて「全体が液状にドロドロしてて、ただ偶然、ドロドロしてる中のここからここまでの部分が自分となって現れてるだけやねんで」(p.119)、だから他人に善いことをするのは自分に善いことをするのと同じ、それが"慈悲"だと言ってる。

この考えは、マイケル・サンデル教授が説くコミュニタリアンの考えと通じている、と思った。1人の人間はそれ自体で存在するのでなく、歴史的、社会的なつながりのなかで存在しており、その人を取り巻く環境に負っているという考え。

慈悲について"笑い"の観点から考えていることに、はっとさせられた。慈悲深い方がおもろいんだ、と。「居酒屋に入って、「おい、はよこの机拭かんかえ」と、店員に怒るより、「この机拭かせて下さい」と言って自分のハンカチでゴシゴシする方がおもろいんです」(p.140)

たしかに、自分の思う通りに人を動かして得意になっている人の話より、あえて困難に飛び込んでいく人の話の方が面白いし、人が集まるのではないか。

哲夫氏の般若心経の読み解き方には唸らせられる。特に「是故空中無色」の訳し方。空中=in the skyから空=nothing、つまり in nothing と読み替え、さらに in を「の状態で」と訳すことによって、「この宇宙に存在するいっさいの事物や現象には実体がない」に辿り着いている。すごいや。

2011-08-06

荒野の用心棒 [セルジオ・レオーネ監督]

若き日のクリント・イーストウッド、超クール。

粗織りのポンチョ、シープスキンのチョッキ、タンガリーシャツ、藍染めの細いバンダナ、ストレートジーンズ、バックスキンのライディングブーツ。衣装がキマっている。「午前十時の映画祭」のサイトによると、この衣装はイーストウッド自身が考えて用意したものとのこと。

粗織りのポンチョは本当にカッコよくて、昔から欲しいと思っている。裾をめくって肩にかけ、腰の銃に手をかける仕草にはホレボレする。

黒沢明の「用心棒」を下敷きにしている作品。黒沢作品は観たことがないが、この状況設定は西部劇だからこそ生きるような感じがする。外界と隔絶する砂漠の中の小さな町、対立する二つの派閥、しかもそれぞれ白人とメキシコ人と人種が異なっている。そして現れる凄腕の風来坊。映画の中の登場人物たちの位置関係はわかるけれど、三者の背景についての説明は全くなし。対立とその間で画策する主人公の動きが、サスペンスとアクションを紡いでいく。

この映画にメッセージは何もないけれど、演出と俳優の演技が観客を映画の世界にどっぶり落とし込んでくれる。最後に主人公の風来坊が颯爽と去る姿にカタルシス。チープだけれど映画の本質が凝縮されている。

それにしてもクリント・イーストウッドの立ち姿と横顔はルパン三世に似ている。

1964年。製作イタリア。