茶道の様々な接待について解説している。
読んで勉強になった。今まで茶道は、かしこまって座って出されたお茶を器を吟味してから飲んでかしこまって器を返すものだと思っていた。でもこれを読んで、茶道とはいかに客を"おもてなし"、客がいかにおもてなしを受けるかを学ぶことなのだ、ということがわかった。
「本覚坊遺文」や「利休にたずねよ」を読んで、"お茶"は戦国時代の明日をもしれぬ命同士が対する濃い情の交換の場だったのだ、ということを知ったが、太平の世にあっても"お茶"は人と人との濃い心の交流を演出する場のようだ。
毎月の季節に合わせたもてなしの演出とその作法について解説している。朝ごはんをふるまう"茶"、名水をふるまう"茶"、新米を炊いてもてなす"茶"、夜咄を楽しむ"茶"。しかも、茶室ではなく洋室の椅子とテーブルでもてなす"茶"についても提案している。
お茶の流れがだいたいわかった。お客が揃うまで待合に腰掛けて待ってもらい、主人が迎え、蹲で手を洗い、茶室へご案内。ここで炭を拝見して、懐石料理をふるまう。向付、煮物、焼き物、小吸物、八寸、香の物。その間にお酒も出す。そして湯斗、主菓子。お茶を出す前に主人が茶室のしつらいを変えるので、その間お客にはまた待合に戻ってもらう。お客に茶室に戻ってもらい、濃茶、後炭、薄茶、干菓子でもてなしが終わる。
客をどうやってもてなしたらよいかは頭を悩ますところだし、客としてもいつ暇を告げたらよいか間合いを図るのが厄介だ。でもお茶事の作法を知っていたら、余計な気を回すことなくもてなし、もてなされることができる。
これはハードボイルドの世界だ、と思った。お着物のおばさま方より、袴をはいた男性の方が"茶"の場が引き立つ感じがする。
最後の章で井伊直弼の「茶湯一会集」の紹介をしている。客が帰った後の"独座観念"に感銘を受けた。
今日一期一会省みて、再び帰らざる事を観念し、あるいは独服いたす事、これ一会の極意の習い也。この時寂莫としてうち語らうものとては、釜一口のみにして、ほかに物なし。誠に自得せざれば至り難き境界なりこれだけ感銘を受けたものの、「お茶事」の読み方が、おちゃごと、なのか、おちゃじ、なのかはたまた、おさじ、なのかがわからないままです。